続キンゴローの部屋
お気楽鉄道ファンのブログです。
小浜線の凄い列車 敦賀発、小浜経由 京都行 昭和56年3月
この年の春は、岡山県で合宿がある一方で福井県の福井鉄道南越線の廃止予定があり、南越線最寄り駅武生は米原から行けばさほど距離は無く、岡山の行き帰りには米原を通るので、かなり強引ながら両者を訪問すべく、3月のとある日に東京発の大垣夜行に乗りこんだ。確かこの時が帰宅ラッシュによるガラス破損による大幅遅延が発生した日だったが、その先の長時間停車があるので、静岡か浜松位で定時のダイヤに戻っていた。翌日は雨降りの大垣で113系の西明石行に乗り継ぎ米原からは、長岡行の旧客鈍行に乗り換えた。初めての北陸本線で眠気を感じないうちに武生到着、急いで福井鉄道に向かうとダイヤ上到着する貨物の凸型電機を辛うじて目撃。
その後は粟田部を往復して駅近くの河川で粟田部行きを撮影して、今度は福武線で福井を目指す。福武線の急行は湘南顔、転換クロスシート、カルダン駆動(動き出すまで吊りかけと思っていた)に驚いているうちに路面区間に突入。福井駅前に到着し国鉄に復帰。敦賀まで北陸本線で移動し、小浜線ホームに向かうと盛大に暖房用の蒸気を噴き上げるDE10を先頭にした旧型客車の編成が待機していた。数両ある客車のうち、背ずりにモケットがない木製のオハフ61?に乗車。日暮れ前だが白熱灯の照明が心もとない感じ。
この922列車は敦賀を16:31に出発し京都に22:14着、当時のダイヤでも雷鳥で直通すれば1時間程度で行ける京都までわざわざ6倍の時間をかけて行く稀有な列車である。
昭和55年10月号時刻表から
ここには示していないが、逆方向の京都発敦賀行の設定はない。かの長距離鈍行(門司発福知山行)も反対方向の列車無いので、さほど驚くことではないのだろう。
その京都行は定刻に敦賀駅をゆったりと走り出す。それまで乗っていた北陸本線の列車と比べるとさすがに速度は遅く沿線の雰囲気も変わり何となく心細くなる。3月の北陸はまだまだ寒く、暖房の蒸気は心地よいがだんだんと日が暮れて小浜に着くころにはだいぶ暗くなった。照明は白熱灯なので読書には困難な印象がある。あとはひたすら闇の中を走り東舞鶴に15分、西舞鶴に8分と長時間停車を繰り返す。二つ先の梅迫では数分停まると聞いて入場券を買うために駅舎に向かったら無人駅であった。このころは入場券を集めていたので当然ながら長く停まる駅は改札口に向かうが、たいてい見掛ける同朋をここでは見なかったような気がする。そして19:52に綾部到着。列車はここで進行方向が変わるのでDE10が切り離されてDD51が連結される。一方自分は、京都にはいかないので福知山行を待つとDD51を先頭に50系客車編成が到着、京都行よりもこちらが先発。結局のこの稀有な存在の敦賀発小浜経由京都行列車に着いては1枚の写真も記録せずに過ごしてしまった。
福知山駅では駅周辺のラーメン屋で腹ごしらえ、明朝の福知山線始発までここの待合室で過ごす。深夜に上下列車が行きかう福知山駅待合室は終日営業で結果的には10名ぐらいの人が夜を明かしたようで、女子学生らしい人(当時の自分から見たら年上)が居たのが印象的だった。翌朝は4時代に起床、京都行夜行「山陰」や大阪行「だいせん」を見送って(寝惚けてあまり記憶なし)、後発の大阪行普通列車の旧型客車に乗りこむがすぐさま睡魔に落ち気がつくと宝塚手前の渓谷地帯を走っていた。福知山線に乗ったのは、これまた廃止間近の尼崎港支線に乗るためでこの列車だと接続が良いのと宿代が浮かせるのがメリットだったが、大垣夜行、駅待合室の連泊は高校生であってもかなりハードであった。とはいえ、些か浮世離れしたような旧型客車の旅は得られ難い貴重な体験であった。
箱根湯本 夜の部
全開のは携帯電話での撮影、こちらは10年前のコンデジです(NIKON COOLPIX P310)。相手が動いていないこともありますが、結構撮れる印象です。自分の場合コンデジは消耗して、ダイヤルなどに不調をきたすか、落下させてダメにするケースが多いのですが、本機はテレ側100mmと焦点距離がそれほど長くないのであまり持ち歩かなかったため長持ちしたようです。とかいいながら、ズームレバーは時々動かなくなり電源入れ直しが必要です。
車体を遮らないように撮るとしたらこのアングル。
クルマが来ない合間を見計らって編成全体を写すと、どうしても標識や外灯が掛かります。
定期運用引退以降は、登山線には来ない、夜は走らない、と思っていたので記録できて満足です。