続キンゴローの部屋
お気楽鉄道ファンのブログです。
夏の思い出 線路際の公園でラジオ体操
小学校の夏休み、おなじみの行事はラジオ体操だった。八王子のわが実家の体操会場は中央線の線路横の公園だった。さすがに気が散ると思ったのか体操は線路に背を向けて行い終わると出席ハンコを貰うために並ぶのだが当時は100人ぐらい?の参加者だったので10分ぐらい待たされるのであった。
ここで素直に家に帰ればAM7:00ぐらいに家について朝ごはんとなるのが日課であったが、時々友人たちと意気投合して公園に居残って時間を忘れて遊ぶことがあった。んなことをやっているとすぐに1時間ぐらい経過してしまい家に帰れば鬼の形相で、あるいはあきれ顔で母親に迎えられるのであった。
前述のとおり、中央線横の公園なので朝のラッシュ時ということもあって頻繁に101系や103系が通り、思い出したように165系、115系、EF64貨物が通過するだけあった。当地のクイーン特急「あずさ」は比較的朝が遅いので自分たちの遊び時間にはみかけることはなかった。
そんな夏の朝に遊びに、10両編成の電車通過中に滑り台を何回滑れるかを競うという変な遊びがあった。通勤電車はすべて10両、両隣の駅の中間なので通過速度もほぼ一緒で条件が揃うのも理由だった。朝早いと滑り台の主たる利用者の小さい子が居ないのもこの遊びを始めた理由だった。
ただそんな中央線にも珍客が時々現れ、近くの踏切が鳴ってスタンバイしているとクモニ13単行が来たり(但しこれは夕方だったかも)、EF64単機が来たりで大いにズッコケることもあった。
ちなみに、滑り台の回数は階段を駆け上がりすべり降りて階段へと繰り返すのだが、どんなに頑張っても最大3回までしか滑れなかった。
ところで、朝の車種が単調だった中央線だったのが幸いで、これが蒲田付近の東海道線とか赤羽付近の東北本線とかであったら、寝台列車や特急列車のラッシュが訪れて家に帰るどころではなくなるので最悪家に家れてもらえない事態が予想されたからである。
画像はDD51牽引の高尾臨(右端の木がある場所がその公園である) おそらく再掲
1986年秋、長野県を巡る直流急行型電車お別れ旅-5
ラストランナーの「アルプス」は寝ぐらの松本運転所の横を通った時に折りよく蒸気機関車の様な汽笛が聞こえて来た。これは運転所に置かれた蒸気機関車のボイラーから時報代わりに発せられる音らしい。
塩尻までの複線区間を快調に飛ばし列車は塩嶺トンネルに差し掛かる。トンネルに反響するMT54のモーター音を堪能すると岡谷。ここからは飯田線からの急行「こまがね」を後部に併結。同時に我々はグリーン車に引越し急行型のサロとのお別れ乗車を堪能するためだ。アルプスから撤退するとあとは急行東海だけの連結になるので、奮発したのだった。
しかしながら、このあとは同行の友人と信州産のワインを開けたため記憶はかなり曖昧になった。
気がつけば、友人の降りる立川に近づいており、残りの時間は一人静かに電車急行との別れを惜しんだのであった。
これで、定期列車では長編成の電車急行は「東海」を残すのみとなった。
塩尻までの複線区間を快調に飛ばし列車は塩嶺トンネルに差し掛かる。トンネルに反響するMT54のモーター音を堪能すると岡谷。ここからは飯田線からの急行「こまがね」を後部に併結。同時に我々はグリーン車に引越し急行型のサロとのお別れ乗車を堪能するためだ。アルプスから撤退するとあとは急行東海だけの連結になるので、奮発したのだった。
しかしながら、このあとは同行の友人と信州産のワインを開けたため記憶はかなり曖昧になった。
気がつけば、友人の降りる立川に近づいており、残りの時間は一人静かに電車急行との別れを惜しんだのであった。
これで、定期列車では長編成の電車急行は「東海」を残すのみとなった。