続キンゴローの部屋
お気楽鉄道ファンのブログです。
今年もお世話になりました
あと数分で2015年が終わりますが、暖かくて年末の感じがしません。
来年も変革の多そうな鉄道界ですが、乗って楽しい列車も継続してほしいと思う年の瀬でした。
来年も変革の多そうな鉄道界ですが、乗って楽しい列車も継続してほしいと思う年の瀬でした。
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かつて乗り鉄の時にやらかした寝過ごしのおはなし
今から34年前の夏休み、高校生だった時にやらかした寝過ごしのことを紹介します。
時は1981年7月31日、東北上越新幹線開業を翌年に控えたこの年、東北ワイド周遊券を携えた私は近々消えてしまうであろう列車たちの乗り鉄ときどき撮り鉄を堪能していた。
この日は早朝4:52の八戸で急行「八甲田」を下車、八戸線の一番列車に乗り継ぎ、久慈~普代と移動して、ここからは国鉄バスで北山崎展望台を経由して岩泉駅に到着。折しも始まったばかりの部分日食を駅前広場で見上げてから岩泉線に乗車。茂市で急行列車に乗り換えて宮古に行き、宮古線の気動車で田老を往復、宮古からは急行「五葉」で18:25に盛岡駅に戻ってきた。
車窓からは美しい三陸の海を見ることができて、楽しく充実した一日を過ごした。その30年後、あの恐ろしい地震と津波であのようなことになろうとはこの時は夢にも思わなかった。
盛岡駅構内の食堂で夕食を摂りながら、次の行程を検討。東北ワイドの範囲で、乗りたい列車路線はたくさんあるので目移りするが、夜行急行を組み合わせて効率よく動きたいと考えていた。
そうそう、男鹿線て未乗だった。どうせ男鹿線に乗るならば、乗ってみたい列車があった。それは8131列車。
そう、急行「おが3号」が快速になって男鹿まで連れて行ってくれるという便利な列車。で、その「おが3号」は福島発1:54なので、盛岡から東北本線の上り列車に乗る必要があり、盛岡発21:10急行「いわて4号」ならば福島着0:51、盛岡発21:13臨時急行「八甲田60号」ならば福島着1:02に乗ればよいことを確認。
どうせならば、12系とはいえ客車だし臨時で空いているだろうしということで、「八甲田60号」に決定。ちなみに、この「八甲田60号」青森17:26発上野着5:52、しかも7月31日なので絶対に空いているだろうとの読みで待ち受けると案の定1両に数名の状態で登場。冷房が効いて静かで快適な乗り心地もあって即座に眠りに落ちてしまった。
余談であるが、この時間帯の盛岡駅、当時の時刻表では
21:26 ゆうづる2号 上野 25系
21:39 ゆうづる4号 上野 14系
22:00 ゆうづる6号 上野 25系
22:09 ゆうづる8号 上野 24系
22:12 北星 上野 14系
22:50 十和田4号 上野 20系
と続き、今であれば垂涎ものの光景だったらしいが、当時は時刻表を見落としていた。もっともこの時は疲労で眠くてこれを見届けようという気力は起きなかったに違いない。
時間は過ぎて・・・、「八甲田60号」で爆睡していた自分は、起動時のガッシャーンという衝撃で目が覚めた。ぼーっとしたまま窓の外を見ると薄暗いホームが後方にゆっくりと流れていく。「え!?どこ?」と狼狽えている視界に「く ろ い そ」という文字が目に入り、一気に目が冴えた。慌てて時刻表を繰ると次の停車駅は宇都宮と判明。今度は寝ないように頑張って早朝のホームに降り立った。
周遊券の経路からすると、このまま復路の経路として有効であるが、まだ1週間位有効期限があったので乗り越し精算してでも戻るつもりだった。で、覚悟を決めて財布を手にして改札口で「あの~、郡山で降りるつもりが乗り過ごしまいた」と言うと、「ああ、いいよ、そのまま戻って。」と言われて落着(当時の国鉄職員の様子を考えると結構ドキドキもの、若い駅員だったのでなおさらでした)。
そのあとは、意気消沈したまま下りの普通列車を乗り継ぎ福島まで。そこから奥羽本線の峠駅でおりて撮り鉄。その後は山形、仙山線経由で仙台に出て宮城県の親戚宅に泊めてもらった。
実は、周遊券はまだまだ有効期限はあったものの、親せき宅から動くのが面倒になってしまい数日滞在して帰京した。そんなわけで、14系で男鹿線を踏破する野望は果たせぬままとなった。
しかし、今思えばもったいないことをしてしまいました。緊張の糸が切れてしまったのでしょうか。残りの有効期限を使って日中線、陸羽西線&羽越本線あたりは行きたかったです。
※1981年の時刻表は手元にないため、ほぼ時間が同じと思われる1980年(昭和55年)の時刻表を参考にしました。