続キンゴローの部屋
お気楽鉄道ファンのブログです。
今日は6/23
この日にふさわしいねたをアップします。時は18年前の1995年4月GW、個人的なことでゴタゴタしていた私は輪行袋にMTBを突っ込み北斗星5号に乗り込みました。気分転換に旅に出たかったのです。この時は鉄活動はほとんど考えず写るんですを携えて出掛けました。
北斗星は開放B寝台で同じ区画にカメラバッグを持った方が二人いました。会話がそれとなく聞こえてきてどうやらC62を撮影されるようです。そうなると会話に加わりたくなり、今回は自転車が目的だが実は鉄道も好きだと自己紹介をして楽しく過ごさせて頂きました。
翌朝、私は函館で下車しお二人を見送りました。しかし、やはりC62のことが気になり4日目に室蘭本線の豊浦駅から倶知安かニセコを目指して走ることにしました。そして、豊浦でエルムの通過を見送りスタート、詳細は省きますが倶知安の駅前で羊蹄山の湧水を飲み干してC62ニセコ号を見送ることが出来ました。
ただ惜しむらくは、カメラが写るんですだったこと。そんなわけで、夏にテツ友を誘いはくつる81号で渡道しました。実ははくつる乗車までもちょっとしたハプニングがありましたがそれはまた別の機会に紹介します。
画像はその夏の渡道時のものです。
1995.8. 比羅夫-ニセコ、到着直前なので煙はほとんど出ていません。
ニセコのターンテーブルにて
当日朝の小樽築港機関区です。許可を頂いて見学しました。
実はこれでC62の迫力に参って、11/3の最終運転にも行ってしまったのでした。その記録も別の機会に紹介します。
北斗星は開放B寝台で同じ区画にカメラバッグを持った方が二人いました。会話がそれとなく聞こえてきてどうやらC62を撮影されるようです。そうなると会話に加わりたくなり、今回は自転車が目的だが実は鉄道も好きだと自己紹介をして楽しく過ごさせて頂きました。
翌朝、私は函館で下車しお二人を見送りました。しかし、やはりC62のことが気になり4日目に室蘭本線の豊浦駅から倶知安かニセコを目指して走ることにしました。そして、豊浦でエルムの通過を見送りスタート、詳細は省きますが倶知安の駅前で羊蹄山の湧水を飲み干してC62ニセコ号を見送ることが出来ました。
ただ惜しむらくは、カメラが写るんですだったこと。そんなわけで、夏にテツ友を誘いはくつる81号で渡道しました。実ははくつる乗車までもちょっとしたハプニングがありましたがそれはまた別の機会に紹介します。
画像はその夏の渡道時のものです。
1995.8. 比羅夫-ニセコ、到着直前なので煙はほとんど出ていません。
ニセコのターンテーブルにて
当日朝の小樽築港機関区です。許可を頂いて見学しました。
実はこれでC62の迫力に参って、11/3の最終運転にも行ってしまったのでした。その記録も別の機会に紹介します。
2002年6月リバイバルやまびこ
今から11年前、2002年6月22日は今年と同じで土曜日でした。在来線やまびこ廃止からちょうど20年経ったこの日と東北新幹線開業から20年経った6月23日に、485系を使って特急やまびこのリバイバル運転がありました。
私は、仙台→郡山で指定席が取れたのでこの区間だけ乗車し、その後は猪苗代に行ってこの日に走っていたC57牽引列車に乗っておりました。
2002.6.22. 仙台駅にて やまびこの右側にぼわーっと写っているグレーのものは前にいた少年の帽子のツバです。
島原鉄道キハ20
2007年に長崎県に仕事で行った時のこと。仕事が長引くことも考慮して最終便を予約してたら昼過ぎに終了。とはいえ今から戻っても夕方過ぎるのは明白なので素直に予定のフライトに決定。5時間ほどの空き時間は島原鉄道を訪問することとしました。しかしながら列車のタイミングが合わないため長距離バスで島原を目指しました。この辺りは高速道路は通っていなかったため一般道を観光タイプのバスが走る路線でした。
目的の1つはこの時走っていた元国鉄キハ20、島原に着くと到着まで数分だったので最寄の踏切にダッシュして何とか捉えました。その後は歩いて南島原に移動し、第2の目的の特徴的な入江を背景に列車を撮影してから島原鉄道の列車で諫早に戻り空港に向かいました。廃止予定の区間は時間切れで行けませんでした。
2007.7. 島原ー島鉄本社前
目的の1つはこの時走っていた元国鉄キハ20、島原に着くと到着まで数分だったので最寄の踏切にダッシュして何とか捉えました。その後は歩いて南島原に移動し、第2の目的の特徴的な入江を背景に列車を撮影してから島原鉄道の列車で諫早に戻り空港に向かいました。廃止予定の区間は時間切れで行けませんでした。
2007.7. 島原ー島鉄本社前
京王5000系の思い出(吊り掛け急行の疾走)
京王線とは縁が強くて、就職して会社の寮に入る迄はずっと京王沿線の住人でした。そんなわけで、京王線にまつわる思い出を少し紹介します。
大学生の時は京王線で通学をしており、とある土曜日は午後の電車で家路についてました。すると、対向列車からいつになくハイペースな吊り掛けのモーター音が・・・、慌てて振り返ると急行のマークを掲げた5000系が遠ざかって行くのが見えました。1983年頃のことだったでしょうか。当時はまだ吊り掛けの5000系が健在で普段は各停運用についてましたが、この日は競馬開催日で、競馬場始発の臨時急行の運用に入っていた様です。となると、新宿到着後は回送で戻って上りの急行に入ることが予測されたので東府中に先回りして待ち構えてました。
暫くして、急行のマークを掲げた5000系が予想通りやって来ました。早速先頭の吊り掛け車に乗り込みます。車内は競馬帰りの人達で混んでいましたが贅沢は言ってられません。速度計の見える位置ににじり寄ってスタンバイ完了。電車は新宿に向けて出発しました。調布までの区間では武蔵野台の先にややきついカーブが有るのでそこから西調布の先まで続く直線区間で高速運転の期待が高まります。カーブを抜けると電車は再加速し95km/h位に達したでしょうか。この位になるとモーターは甲高い音を奏でており、その音にしびれてしまいました。
調布から先は、国領から先はまた直線区間が続くのですが、ダイヤがつまっていたのかさっきほどは速度を出さず千歳烏山に到着。あとは淡々と走って明大前でこの電車から下車し追っかけを終了、帰途に着きました。
しかし、あとにも先にも京王線で吊り掛け急行に乗ったのはこれきりでした。すれ違うことはあっても追っかけができなかったとかで、チャンスがありませんでした。ぜひとも、もう一度あのモーター音を聞いてみたいです。
吊り掛け車ではありませんが50000系の写真を。平山城址公園ー長沼にて 1992年頃
大学生の時は京王線で通学をしており、とある土曜日は午後の電車で家路についてました。すると、対向列車からいつになくハイペースな吊り掛けのモーター音が・・・、慌てて振り返ると急行のマークを掲げた5000系が遠ざかって行くのが見えました。1983年頃のことだったでしょうか。当時はまだ吊り掛けの5000系が健在で普段は各停運用についてましたが、この日は競馬開催日で、競馬場始発の臨時急行の運用に入っていた様です。となると、新宿到着後は回送で戻って上りの急行に入ることが予測されたので東府中に先回りして待ち構えてました。
暫くして、急行のマークを掲げた5000系が予想通りやって来ました。早速先頭の吊り掛け車に乗り込みます。車内は競馬帰りの人達で混んでいましたが贅沢は言ってられません。速度計の見える位置ににじり寄ってスタンバイ完了。電車は新宿に向けて出発しました。調布までの区間では武蔵野台の先にややきついカーブが有るのでそこから西調布の先まで続く直線区間で高速運転の期待が高まります。カーブを抜けると電車は再加速し95km/h位に達したでしょうか。この位になるとモーターは甲高い音を奏でており、その音にしびれてしまいました。
調布から先は、国領から先はまた直線区間が続くのですが、ダイヤがつまっていたのかさっきほどは速度を出さず千歳烏山に到着。あとは淡々と走って明大前でこの電車から下車し追っかけを終了、帰途に着きました。
しかし、あとにも先にも京王線で吊り掛け急行に乗ったのはこれきりでした。すれ違うことはあっても追っかけができなかったとかで、チャンスがありませんでした。ぜひとも、もう一度あのモーター音を聞いてみたいです。
吊り掛け車ではありませんが50000系の写真を。平山城址公園ー長沼にて 1992年頃
特急はつかり(上野ー青森)の思い出
◇東北昼行特急のエース
列車番号に1M,2Mを与えられていることからも疑う余地のないところでしょう。ある時期1Mは上野16:00発とひばりの設定時刻を16:04発にずらしていたこともありました。
◇指定席の取り難い人気列車?
ただ、我が家の帰省旅行では乗車の実績はほとんどありませんでした。幼い頃の微かな記憶では父と二人で夕方出発して仙台に向かったことがありましたが、乗った時間帯と食堂車に行ったことを覚えているだけです。小学生の時も一度だけ午後の上り列車に乗ったのですが記憶にほとんど残っておりません。
かつては全車指定席だったため、指定席が取り難かったと思われます。はつかりに自由席が設定されたのは確か53.10.のダイヤ改正と記憶してます。
◇1982.11.に食堂車のお別れ乗車実行
その様な訳で、東北新幹線の本格開業が近づき583系の食堂車で食事をするため、南東北旅行の時に郡山ー仙台ではつかり1号に乗車しました。まずは早速食堂車に向かいます。まだ昼食には早すぎるためか、先客はおりませんでした。ゆったりと食事を終えて、スタッフの方に許可を頂き車内の写真を撮らせてもらいました。おそらく、東北で営業中のサシ581に乗るのはラストチャンスだろうと思うと後ろ髪を引かれる思いでしたが、学生の身では追加オーダーする余裕はなく諦めるしかありませんでした。
1982.11.3. はつかり1号車内、許可を頂き撮影
自由席に移ると,、列車は藤田から貝田にかけての山越えに差し掛かる処でした。文化の日にしては空いており、多くの乗客は新幹線に流れたのでしょうか。583系の力走を静かに堪能しました。
仙台に着くと鉄道ファンが列車を取り囲み583系の人気ぶりが伺えました。
はつかりは盛岡-青森の特急として愛称は残りましたが、食堂車は営業されず583系は13両の長編成をもて余すこととなるのでした。
仙台でファンに囲まれて(同じ位に来た上り列車)
列車番号に1M,2Mを与えられていることからも疑う余地のないところでしょう。ある時期1Mは上野16:00発とひばりの設定時刻を16:04発にずらしていたこともありました。
◇指定席の取り難い人気列車?
ただ、我が家の帰省旅行では乗車の実績はほとんどありませんでした。幼い頃の微かな記憶では父と二人で夕方出発して仙台に向かったことがありましたが、乗った時間帯と食堂車に行ったことを覚えているだけです。小学生の時も一度だけ午後の上り列車に乗ったのですが記憶にほとんど残っておりません。
かつては全車指定席だったため、指定席が取り難かったと思われます。はつかりに自由席が設定されたのは確か53.10.のダイヤ改正と記憶してます。
◇1982.11.に食堂車のお別れ乗車実行
その様な訳で、東北新幹線の本格開業が近づき583系の食堂車で食事をするため、南東北旅行の時に郡山ー仙台ではつかり1号に乗車しました。まずは早速食堂車に向かいます。まだ昼食には早すぎるためか、先客はおりませんでした。ゆったりと食事を終えて、スタッフの方に許可を頂き車内の写真を撮らせてもらいました。おそらく、東北で営業中のサシ581に乗るのはラストチャンスだろうと思うと後ろ髪を引かれる思いでしたが、学生の身では追加オーダーする余裕はなく諦めるしかありませんでした。
1982.11.3. はつかり1号車内、許可を頂き撮影
自由席に移ると,、列車は藤田から貝田にかけての山越えに差し掛かる処でした。文化の日にしては空いており、多くの乗客は新幹線に流れたのでしょうか。583系の力走を静かに堪能しました。
仙台に着くと鉄道ファンが列車を取り囲み583系の人気ぶりが伺えました。
はつかりは盛岡-青森の特急として愛称は残りましたが、食堂車は営業されず583系は13両の長編成をもて余すこととなるのでした。
仙台でファンに囲まれて(同じ位に来た上り列車)
臨時急行列車「富士山トレイン371」
詳しくはJR東海のニュースリリースを。
371系と出会えるチャンスが増えるのは喜ばしい限りです。一方117系の去就が気になります。
ttp://jr-central.co.jp/news/release/nws001228.html
371系と出会えるチャンスが増えるのは喜ばしい限りです。一方117系の去就が気になります。
ttp://jr-central.co.jp/news/release/nws001228.html