続キンゴローの部屋
お気楽鉄道ファンのブログです。
特急はくつる(客車列車編)で下北半島早回り旅行
◇突然の出発
1999.6.のとある土曜日の夜に衝動的に旅行に出ました。その日は緊急の対応で仕事が入り、違う部署の人と二人で作業してましたが、急遽上司の指示を仰ぐ必要となり・・・、がしかし誰とも連絡が取れず断念。依頼したのだからせめて連絡時は応答して欲しいと二人で憤慨しながら遅い昼食を取って夕方に帰宅したのでした。
なわけでモヤモヤが晴れず、いっそのこと旅に出てさっぱりしてしまえーとばかり最寄り駅に向かいました。
みどりの窓口に着くやいなや「今夜のはくつるB寝台、青森まで1枚。あと、ウィークエンドフリー切符下さい。」と切符を一気買いして出発~。
時間的に上野からのはくつるには間に合わないため、寝台券は宇都宮からにして、新幹線で先回りすることに。こういう時ウィークエンドフリー切符は便利でした。
東北新幹線ではビールをかっくらい宇都宮下車。はくつる号到着迄20分くらいあったので、駅前に出ようとしたら雨がショボショボ降っていたから断念。大人しくはくつるに乗り込みます。適度にアルコールが入っていたからかあっさり眠りに落ちてしまいました。
翌朝、カーテンの外から難解な会話が聞こえてきて目が覚めました。内容が全然聞き取れません。青森の言葉ってそんなに難しかったかと思いカーテンを開けるとロシア人らしい大男が二人。そりゃあ聞き取れ無いわけだ。
野辺地を出発していくはくつる号
◇下北交通へ
列車は間もなく野辺地に着くので下車し大湊線に乗り込みます。小一時間乗った下北で降りました。目的は下北交通です。大畑線が下北交通に移管されてからは乗った事がなかったので初乗車です。
下北にて
本州もこの辺りに来ると荒涼とした景色だなと思っているとあっさり到着。折り返しには間があったので駅前にいた下北交通のバスでも田名部で同じ列車に乗れるとわかったため、バスで田名部に向かった。道路も線路も近いところを走るので景色は似たようなものでした。
田名部からは列車で下北に戻り、ちょうど来た大湊線下りで大湊にも足を伸ばしましたが、列車本数を考えると後の行程に差し支えるためすぐにとんぼ返りして野辺地を目指しました。古牧温泉が近いので一風呂浴びるため、三沢に行くことにして、すぐに来たはつかりに乗りました。
三沢では駅からすぐの古牧温泉に入り、その後は十和田観光の電車を撮影。乗るには時間が合わなかったためですが、あの時はよもや廃止になるとはゆめゆめ思わなかったので残念なことをしました。三沢の駅を出るとすぐに古牧温泉ホテルの敷地を通るため、写真の様に駅至近とは思えない風景の中を走ってました。
三沢駅至近で撮影
◇盛岡界隈を徘徊
三沢からははつかりに乗り盛岡に向かいました。この列車の先頭にクハ481-1508が入っておりました。折角なのでどこかで撮ろうと考え、普通列車で折り返し渋民で下車。好摩側に少し行ったところで少し撮影すると夕暮れです。
渋民ー好摩にて
盛岡に戻ると田沢湖線の701系を見かけたのでつられて乗り込みます。時刻表を見ると田沢湖で折り返せば今日中に東京に戻れる事が分かり下車。時刻は19時近く、これからでも東京に日着できるなんて新幹線の威力を感じます。
しかし、やって来たこまち号の自由席は満席、盛岡でやまびこ号に移動して空席に期待しますが、盛岡からの乗客で既に満席。やむなく、仙台まで立ちます。対面ホームには停車駅の多い次発のやまびこ号がいましたがこれだと東京到着が遅いので、とにかく仙台に向かいました。
仙台では始発のやまびこ号に乗り換えます。この列車は各駅停車なのでやはり空いていました。それでも盛岡始発よりは少し早く東京に着くので、深夜帯の帰宅では助かります。
一日、北東北を徘徊したお陰で出発時のモヤモヤもすっきりしたようです。
写真は全てNIKON PRONEA-Sで撮影をネガスキャン
1999.6.のとある土曜日の夜に衝動的に旅行に出ました。その日は緊急の対応で仕事が入り、違う部署の人と二人で作業してましたが、急遽上司の指示を仰ぐ必要となり・・・、がしかし誰とも連絡が取れず断念。依頼したのだからせめて連絡時は応答して欲しいと二人で憤慨しながら遅い昼食を取って夕方に帰宅したのでした。
なわけでモヤモヤが晴れず、いっそのこと旅に出てさっぱりしてしまえーとばかり最寄り駅に向かいました。
みどりの窓口に着くやいなや「今夜のはくつるB寝台、青森まで1枚。あと、ウィークエンドフリー切符下さい。」と切符を一気買いして出発~。
時間的に上野からのはくつるには間に合わないため、寝台券は宇都宮からにして、新幹線で先回りすることに。こういう時ウィークエンドフリー切符は便利でした。
東北新幹線ではビールをかっくらい宇都宮下車。はくつる号到着迄20分くらいあったので、駅前に出ようとしたら雨がショボショボ降っていたから断念。大人しくはくつるに乗り込みます。適度にアルコールが入っていたからかあっさり眠りに落ちてしまいました。
翌朝、カーテンの外から難解な会話が聞こえてきて目が覚めました。内容が全然聞き取れません。青森の言葉ってそんなに難しかったかと思いカーテンを開けるとロシア人らしい大男が二人。そりゃあ聞き取れ無いわけだ。
野辺地を出発していくはくつる号
◇下北交通へ
列車は間もなく野辺地に着くので下車し大湊線に乗り込みます。小一時間乗った下北で降りました。目的は下北交通です。大畑線が下北交通に移管されてからは乗った事がなかったので初乗車です。
下北にて
本州もこの辺りに来ると荒涼とした景色だなと思っているとあっさり到着。折り返しには間があったので駅前にいた下北交通のバスでも田名部で同じ列車に乗れるとわかったため、バスで田名部に向かった。道路も線路も近いところを走るので景色は似たようなものでした。
田名部からは列車で下北に戻り、ちょうど来た大湊線下りで大湊にも足を伸ばしましたが、列車本数を考えると後の行程に差し支えるためすぐにとんぼ返りして野辺地を目指しました。古牧温泉が近いので一風呂浴びるため、三沢に行くことにして、すぐに来たはつかりに乗りました。
三沢では駅からすぐの古牧温泉に入り、その後は十和田観光の電車を撮影。乗るには時間が合わなかったためですが、あの時はよもや廃止になるとはゆめゆめ思わなかったので残念なことをしました。三沢の駅を出るとすぐに古牧温泉ホテルの敷地を通るため、写真の様に駅至近とは思えない風景の中を走ってました。
三沢駅至近で撮影
◇盛岡界隈を徘徊
三沢からははつかりに乗り盛岡に向かいました。この列車の先頭にクハ481-1508が入っておりました。折角なのでどこかで撮ろうと考え、普通列車で折り返し渋民で下車。好摩側に少し行ったところで少し撮影すると夕暮れです。
渋民ー好摩にて
盛岡に戻ると田沢湖線の701系を見かけたのでつられて乗り込みます。時刻表を見ると田沢湖で折り返せば今日中に東京に戻れる事が分かり下車。時刻は19時近く、これからでも東京に日着できるなんて新幹線の威力を感じます。
しかし、やって来たこまち号の自由席は満席、盛岡でやまびこ号に移動して空席に期待しますが、盛岡からの乗客で既に満席。やむなく、仙台まで立ちます。対面ホームには停車駅の多い次発のやまびこ号がいましたがこれだと東京到着が遅いので、とにかく仙台に向かいました。
仙台では始発のやまびこ号に乗り換えます。この列車は各駅停車なのでやはり空いていました。それでも盛岡始発よりは少し早く東京に着くので、深夜帯の帰宅では助かります。
一日、北東北を徘徊したお陰で出発時のモヤモヤもすっきりしたようです。
写真は全てNIKON PRONEA-Sで撮影をネガスキャン
急行津軽の思い出
◇人気のご当地急行
この列車には1981.7に乗車しました。区間は1 号の上野~大曲。上野発は1930位で東北本線内は八甲田同様に快調なペースで走ります。この時は新幹線開業前なので最終ひばりの救済も現役だったと思われますが、テツ好き高校生三人の道中ゆえ周囲の状況は全く覚えていません。
◇いよいよ奥羽線へ
もうすぐ日付の変わる時間に福島に到着。機関車交換の儀式が終わり、奥羽本線に歩みを進めます。板谷峠のスイッチバック駅の通過を暗い中目を凝らして眺め、大沢を通過してスイッチバック区間が終わる頃には旅立ちの興奮も収まりそろそろ眠ろうとしましたが、これがなかなか眠れない状況でした。津軽も足が長い列車ゆえにほどほどの速度で運転されるが、奥羽本線はほとんど単線で交換可能駅ではY字ポイント通過でガタガタ音とともに左右に振られるわ、乗った車両はフラットで終始ゴトゴトいう始末。気が付くと夜は白々と明けて来て下車駅大曲が近づいていました。
◇大曲下車後は
この旅行の目的は、東北新幹線開業を翌年に控えた東北地方を廻ることで、乗りテツにも力を入れていたので、この日は乗り潰しメインでした。実のところ時刻表2万キロの宮脇氏のプランと同一で、角館線、矢島線、阿仁合線と辿りました。しかも原作では宮脇氏が鷹ノ巣で足止めされましたが、我々の場合は阿仁合線で鷹ノ巣迄戻ったら突然の豪雨で奥羽本線が運転見合せになると言うおまけ付きでした。
◇津軽4号にも乗車
散々な津軽1号の初乗車でしたがこの旅行中の別の日に青森~米沢で乗った4号では騒音に悩まされずにぐっすり眠れたことを記しておきます。こちらでは東京に出稼ぎに行くお父さんたちと意気投合して楽しい時を過ごせました。但し、翌朝の米沢で危うく降りそびれそうになったのでしたが、何とか無事降りられたのでよしとしましょうか。
なぜこの様なアングルかというと・・・
向こうのホームには急行天の川が来てゴハチ並びに。1980.9.大宮にて
14系時代の様子。撮影場所を失念しましたが秋田か弘前あたり、1990年頃
この列車には1981.7に乗車しました。区間は1 号の上野~大曲。上野発は1930位で東北本線内は八甲田同様に快調なペースで走ります。この時は新幹線開業前なので最終ひばりの救済も現役だったと思われますが、テツ好き高校生三人の道中ゆえ周囲の状況は全く覚えていません。
◇いよいよ奥羽線へ
もうすぐ日付の変わる時間に福島に到着。機関車交換の儀式が終わり、奥羽本線に歩みを進めます。板谷峠のスイッチバック駅の通過を暗い中目を凝らして眺め、大沢を通過してスイッチバック区間が終わる頃には旅立ちの興奮も収まりそろそろ眠ろうとしましたが、これがなかなか眠れない状況でした。津軽も足が長い列車ゆえにほどほどの速度で運転されるが、奥羽本線はほとんど単線で交換可能駅ではY字ポイント通過でガタガタ音とともに左右に振られるわ、乗った車両はフラットで終始ゴトゴトいう始末。気が付くと夜は白々と明けて来て下車駅大曲が近づいていました。
◇大曲下車後は
この旅行の目的は、東北新幹線開業を翌年に控えた東北地方を廻ることで、乗りテツにも力を入れていたので、この日は乗り潰しメインでした。実のところ時刻表2万キロの宮脇氏のプランと同一で、角館線、矢島線、阿仁合線と辿りました。しかも原作では宮脇氏が鷹ノ巣で足止めされましたが、我々の場合は阿仁合線で鷹ノ巣迄戻ったら突然の豪雨で奥羽本線が運転見合せになると言うおまけ付きでした。
◇津軽4号にも乗車
散々な津軽1号の初乗車でしたがこの旅行中の別の日に青森~米沢で乗った4号では騒音に悩まされずにぐっすり眠れたことを記しておきます。こちらでは東京に出稼ぎに行くお父さんたちと意気投合して楽しい時を過ごせました。但し、翌朝の米沢で危うく降りそびれそうになったのでしたが、何とか無事降りられたのでよしとしましょうか。
なぜこの様なアングルかというと・・・
向こうのホームには急行天の川が来てゴハチ並びに。1980.9.大宮にて
14系時代の様子。撮影場所を失念しましたが秋田か弘前あたり、1990年頃
371系再び
JR東海のプレスリリースに↓なタイトル確認。
臨時快速列車「おやまウォーキング」号 371系車両で運転!
さわやかウォーキングというハイキングイベントのための列車なのですが、昨年も6月に走っていたので定例化されたイベントなのかも。
臨時快速列車「おやまウォーキング」号 371系車両で運転!
さわやかウォーキングというハイキングイベントのための列車なのですが、昨年も6月に走っていたので定例化されたイベントなのかも。
1981年3月 福井鉄道
尼崎港の前日は福井鉄道を訪れてました。おそらく、雑誌の記事で廃止が近いことを知り旅行に組み入れたんだと思います。
行程は大垣行から乗り継ぎ米原へ、ここから客車鈍行で武生まで。武生で南越線を探すのに手間取ったら、ちょうど貨物列車がやって来ました。その後は南越線を往復して、武生至近の鉄橋で南越線を撮影し、今度は福武線に乗車して福井迄行きました。
福井からは敦賀に戻り、敦賀発東舞鶴、綾部経由の京都行という列車で綾部乗り換え福知山に降り立ち、ここの待合室で一夜を過ごしました。京都行は照明が白熱灯の客車があったのでその車両に乗りました。あの頃は客車列車が結構走っていたため、客車三昧な1日でした。
慌てて撮った貨物列車、おば様方が被った
カマの撮り直し(たぶん)
終点の粟田部駅
南越線の車両
武生の近くの鉄橋で撮影してみました
北陸本線ではEF70が活躍中 確か福井駅
行程は大垣行から乗り継ぎ米原へ、ここから客車鈍行で武生まで。武生で南越線を探すのに手間取ったら、ちょうど貨物列車がやって来ました。その後は南越線を往復して、武生至近の鉄橋で南越線を撮影し、今度は福武線に乗車して福井迄行きました。
福井からは敦賀に戻り、敦賀発東舞鶴、綾部経由の京都行という列車で綾部乗り換え福知山に降り立ち、ここの待合室で一夜を過ごしました。京都行は照明が白熱灯の客車があったのでその車両に乗りました。あの頃は客車列車が結構走っていたため、客車三昧な1日でした。
慌てて撮った貨物列車、おば様方が被った
カマの撮り直し(たぶん)
終点の粟田部駅
南越線の車両
武生の近くの鉄橋で撮影してみました
北陸本線ではEF70が活躍中 確か福井駅
自分が写真に親しむきっかけ
◇父からのプレゼント
時は小学6年生まで遡ります。修学旅行を間近に控えたある日のこと、父に呼ばれると見慣れないカメラがありました。それはキャノネットQL17G-?という機種で、父からのプレゼントでした。かくして、修学旅行がカメラデビューとなったわけですが、全行程バス移動のために鉄分ゼロ。東照宮や華厳滝等の名所と友人たちの撮影に終始しました。
◇旅の合間に鉄道も
鉄道を撮る様になったのは約1年後のことで、都民の日の東京駅、上野駅訪問やスキー旅行の合間に乗車した181系ときや乗車前に上野駅で見かけた20系あけぼのを撮る等、旅行のついでにといった感じでした。
◇本格デビューは地元京王線のイベント
転機は中2の時でした。地元の京王線で立て続けにイベントがあり、クラスメートのテツ好き4人で撮影に行くことに。なりました。一件は京王高尾線10周年記念列車の運転でしたがこれは残念ながら失敗。次にあったのが京王2600 系さよなら運転でした。こちらは地元の利をいかして朝早くから繰り出してヘッドマーク無しの普段着の姿も記録。そして、本番に臨みました。ま、結果はやっぱりいまいちだったりするのですがね。
一日中仲間と行動しての撮影は楽しくて、これが撮り鉄に足を踏み入れるきっかけだったと思います。このメンバーでは中央線の高尾-相模湖にも行ったりしていました。
1977.11. 高尾-高尾山口
今見ても残念な写真ですね。恐らくこの架線柱でピント合わせておいて、先頭がここに来たときにシャッター切ったのですかね~。
時は小学6年生まで遡ります。修学旅行を間近に控えたある日のこと、父に呼ばれると見慣れないカメラがありました。それはキャノネットQL17G-?という機種で、父からのプレゼントでした。かくして、修学旅行がカメラデビューとなったわけですが、全行程バス移動のために鉄分ゼロ。東照宮や華厳滝等の名所と友人たちの撮影に終始しました。
◇旅の合間に鉄道も
鉄道を撮る様になったのは約1年後のことで、都民の日の東京駅、上野駅訪問やスキー旅行の合間に乗車した181系ときや乗車前に上野駅で見かけた20系あけぼのを撮る等、旅行のついでにといった感じでした。
◇本格デビューは地元京王線のイベント
転機は中2の時でした。地元の京王線で立て続けにイベントがあり、クラスメートのテツ好き4人で撮影に行くことに。なりました。一件は京王高尾線10周年記念列車の運転でしたがこれは残念ながら失敗。次にあったのが京王2600 系さよなら運転でした。こちらは地元の利をいかして朝早くから繰り出してヘッドマーク無しの普段着の姿も記録。そして、本番に臨みました。ま、結果はやっぱりいまいちだったりするのですがね。
一日中仲間と行動しての撮影は楽しくて、これが撮り鉄に足を踏み入れるきっかけだったと思います。このメンバーでは中央線の高尾-相模湖にも行ったりしていました。
1977.11. 高尾-高尾山口
今見ても残念な写真ですね。恐らくこの架線柱でピント合わせておいて、先頭がここに来たときにシャッター切ったのですかね~。
急行出羽の思い出
実のところ、この列車に関しては区間利用で乗ったと言うのはおこがましいのですが、関わった列車のことを記録に残すという考えに基づき記述します。
◇周遊券での宿がわりに
この列車は新幹線開業前には上野と酒田をむすぶDC夜行急行でした。上野から東北・奥羽本線・陸羽西線・羽越本線と経由して酒田まで行くルートを取り、しかも陸羽西線が非電化ゆえに夜行列車には珍しいディーゼルカーでした。
残念ながら私が乗ったのは廃止の10日ほど前、郡山時点では1982.11.4.で、それも郡山~米沢と一部区間のみ。新幹線開業前の南東北を回っており、深夜の仙台から翌朝の福島に降り立つためのスケジュールでした。しかし、さすがに夜行の2回乗り継ぎはきつくて、当時でももうやろうとは思わなくなりました。
◇深夜の長編成
この列車は編成が12両とかなり長く郡山~福島では回送編成を繋ぎ15両となるのだが、深夜で眠気に負けて見に行かず仕舞いでした。一応後方を一瞥して増結したらしいことは確認したつもりですが。
しかも、乗り込むやいなや夢の中でおぼろげながら板谷峠をゆっくりと登って行くのを僅かに覚えているぐらいでそれ以外の印象はほとんど残っておりません。それでもしっかり米沢で乗り過ごさず降りられたのは今でも不思議な気がします。でもこの列車のお陰で早朝の福島にたどり着けてED71の旅客列車の撮影&乗車ができたので感謝です。
歴史のある急行列車で、機会があれば全区間乗って見たかったのですが、この12 日後には廃止されて、愛称は秋田行きの寝台特急に使われることとなりました。
探したら写真撮ってました。1980.10.頃、大宮にて
◇周遊券での宿がわりに
この列車は新幹線開業前には上野と酒田をむすぶDC夜行急行でした。上野から東北・奥羽本線・陸羽西線・羽越本線と経由して酒田まで行くルートを取り、しかも陸羽西線が非電化ゆえに夜行列車には珍しいディーゼルカーでした。
残念ながら私が乗ったのは廃止の10日ほど前、郡山時点では1982.11.4.で、それも郡山~米沢と一部区間のみ。新幹線開業前の南東北を回っており、深夜の仙台から翌朝の福島に降り立つためのスケジュールでした。しかし、さすがに夜行の2回乗り継ぎはきつくて、当時でももうやろうとは思わなくなりました。
◇深夜の長編成
この列車は編成が12両とかなり長く郡山~福島では回送編成を繋ぎ15両となるのだが、深夜で眠気に負けて見に行かず仕舞いでした。一応後方を一瞥して増結したらしいことは確認したつもりですが。
しかも、乗り込むやいなや夢の中でおぼろげながら板谷峠をゆっくりと登って行くのを僅かに覚えているぐらいでそれ以外の印象はほとんど残っておりません。それでもしっかり米沢で乗り過ごさず降りられたのは今でも不思議な気がします。でもこの列車のお陰で早朝の福島にたどり着けてED71の旅客列車の撮影&乗車ができたので感謝です。
歴史のある急行列車で、機会があれば全区間乗って見たかったのですが、この12 日後には廃止されて、愛称は秋田行きの寝台特急に使われることとなりました。
探したら写真撮ってました。1980.10.頃、大宮にて
交通トラブル
有楽町で事故があり、東海道線にもダイヤ乱れ発生。湘南新宿ラインの特快は辻堂に臨時停車するそうです。
急行八甲田の思い出
◇韋駄天夜行急行
意外かもしれないが1981年頃の夜行急行では最速でした。長距離で北海道連絡を主目的とする以上は本線をひたすら走り続ける設定が必然だったのだろう。
また、上野発19時代発車の時は、東北ワイド周遊券を活用しての宿がわりに便利だったので全区間乗車は一度だけでした。あとは、12系時代では福島~青森、青森~盛岡往復、北上~八戸、14系時代では八戸~盛岡、上野~西那須野、臨時格下後にハネ利用で小山~青森といった状況でした。
◇一度きりの全区間乗車体験
唯一の全区間乗車1984.9の体験を綴ると、東北夜行急行に似つかわしい上野13番線ホームを1908に発車。既に特急ひばりは廃止されたが往時のスジを快調に飛ばして行きます。
新幹線開業前であれば、特急乗り遅れ客救済列車だったかもしれないがその様な用途の客層は居ない様でした。12系時代は青森寄り9号車は電源エンジン無しのオハフ13だったので機関車の音聞きたさにこの車両に乗りました。カマは旅客機のサラブレッドといえるEF58なのでテツの血が騒ぐと言ったところでしょうか。
宇都宮では10分程度止まり、58同士でカマを交換したと記憶してます。
◇交流区間へ
黒磯に到着しここで第一の儀式、赤い交流機ED75に交替。豊原の先で福島県に入りいよいよみちのくに。列車は淡々歩みを進め仙台に到着しました。深夜帯に掛かるため既にお休み放送を済ませ、無言のまま停車し発車した様に記憶してます。駅の煌々とした照明でうたた寝から覚醒したため、ぼんやりと外を見ていると列車は真っ暗な松島駅の退避線に入りました。下り八甲田の第二の儀式、ここで後続の特急ゆうづる二本を先に行かせるのでした。そのゆうづるは軽くタイフォンを鳴らし通過。暫し休息した我が八甲田はゆうづるを追撃すべく快走を始めました。それは時間調整に縛られる短距離夜行に慣れた身からすると、八甲田の高速走行は胸のすく思いでした。
しかしながら、時刻は深夜、起きているひとは数少なく車内は寝息合戦の様相を呈しています。そんな中を盛岡に到着。
3:18出発、ここから未明のため時刻表上は八戸まで ノンストップとなりますが、30分ほど走って真っ暗な駅に静かに停まりました。
駅名表は「沼宮内」、荷下ろしの為の運転停車です。さすがに起きている人は殆どおらず前方から機関車のメカニカルな機器音が良く聞こえました。
◇十三本木峠越えにアタック
ここまで比較的平坦線を走ってきましたが、峠越えのアタックが始まります。目指すは十三本木峠、D51三重連も後のDD51重連の活躍も知らない世代であるが
ED75の唸りは険しい道のりを思い浮かべるのには十分でした。機次位の9号車に席を占めたおかげでカマの咆哮を堪能していると、トンネルに差し掛かりモーターの唸りが静かになりました。
間もなく奥中山駅通過、ここからは一転して下り坂を駆け下ります。ED75のキャブではブレーキに注意を払いつつ緊張の運転が続いていると思われます。
ふと気が付くと、夜が白々と明けて来ており八戸に到着。徐々に乗客も起き出して車内は賑やかさを取り戻し始めました。
◇爽快なラストスパート
そして最後の停車駅、浅虫を出発するとすぐにトンネルに入りモーター音を反響させながら快調にペースを上げ、海岸沿いに差し掛かります。車内では青森の到着案内放送に続き青函連絡船の案内をが入ります。『本日は連絡船○○丸』の案内にちょっぴり羨望の思いを感じつつ降りじたくをすると、勇躍青森駅のホームに降り立ち、連絡船に向かう客を尻目に後方の出口への階段に足を進めました。今日の行程では特急鳥海での日本海紀行と食堂車が待っている予定です。これはこれはこれで期待に胸が膨らむので足取りは軽やかでした。熱帯夜の東京からすると青森の朝は清々しく感じられました。
1984夏青森に到着したところを撮影
実は沼宮内からの峠越えと浅虫からの出発はカセットに録音していて。今でも当時の状況が浮かんで参ります。
意外かもしれないが1981年頃の夜行急行では最速でした。長距離で北海道連絡を主目的とする以上は本線をひたすら走り続ける設定が必然だったのだろう。
また、上野発19時代発車の時は、東北ワイド周遊券を活用しての宿がわりに便利だったので全区間乗車は一度だけでした。あとは、12系時代では福島~青森、青森~盛岡往復、北上~八戸、14系時代では八戸~盛岡、上野~西那須野、臨時格下後にハネ利用で小山~青森といった状況でした。
◇一度きりの全区間乗車体験
唯一の全区間乗車1984.9の体験を綴ると、東北夜行急行に似つかわしい上野13番線ホームを1908に発車。既に特急ひばりは廃止されたが往時のスジを快調に飛ばして行きます。
新幹線開業前であれば、特急乗り遅れ客救済列車だったかもしれないがその様な用途の客層は居ない様でした。12系時代は青森寄り9号車は電源エンジン無しのオハフ13だったので機関車の音聞きたさにこの車両に乗りました。カマは旅客機のサラブレッドといえるEF58なのでテツの血が騒ぐと言ったところでしょうか。
宇都宮では10分程度止まり、58同士でカマを交換したと記憶してます。
◇交流区間へ
黒磯に到着しここで第一の儀式、赤い交流機ED75に交替。豊原の先で福島県に入りいよいよみちのくに。列車は淡々歩みを進め仙台に到着しました。深夜帯に掛かるため既にお休み放送を済ませ、無言のまま停車し発車した様に記憶してます。駅の煌々とした照明でうたた寝から覚醒したため、ぼんやりと外を見ていると列車は真っ暗な松島駅の退避線に入りました。下り八甲田の第二の儀式、ここで後続の特急ゆうづる二本を先に行かせるのでした。そのゆうづるは軽くタイフォンを鳴らし通過。暫し休息した我が八甲田はゆうづるを追撃すべく快走を始めました。それは時間調整に縛られる短距離夜行に慣れた身からすると、八甲田の高速走行は胸のすく思いでした。
しかしながら、時刻は深夜、起きているひとは数少なく車内は寝息合戦の様相を呈しています。そんな中を盛岡に到着。
3:18出発、ここから未明のため時刻表上は八戸まで ノンストップとなりますが、30分ほど走って真っ暗な駅に静かに停まりました。
駅名表は「沼宮内」、荷下ろしの為の運転停車です。さすがに起きている人は殆どおらず前方から機関車のメカニカルな機器音が良く聞こえました。
◇十三本木峠越えにアタック
ここまで比較的平坦線を走ってきましたが、峠越えのアタックが始まります。目指すは十三本木峠、D51三重連も後のDD51重連の活躍も知らない世代であるが
ED75の唸りは険しい道のりを思い浮かべるのには十分でした。機次位の9号車に席を占めたおかげでカマの咆哮を堪能していると、トンネルに差し掛かりモーターの唸りが静かになりました。
間もなく奥中山駅通過、ここからは一転して下り坂を駆け下ります。ED75のキャブではブレーキに注意を払いつつ緊張の運転が続いていると思われます。
ふと気が付くと、夜が白々と明けて来ており八戸に到着。徐々に乗客も起き出して車内は賑やかさを取り戻し始めました。
◇爽快なラストスパート
そして最後の停車駅、浅虫を出発するとすぐにトンネルに入りモーター音を反響させながら快調にペースを上げ、海岸沿いに差し掛かります。車内では青森の到着案内放送に続き青函連絡船の案内をが入ります。『本日は連絡船○○丸』の案内にちょっぴり羨望の思いを感じつつ降りじたくをすると、勇躍青森駅のホームに降り立ち、連絡船に向かう客を尻目に後方の出口への階段に足を進めました。今日の行程では特急鳥海での日本海紀行と食堂車が待っている予定です。これはこれはこれで期待に胸が膨らむので足取りは軽やかでした。熱帯夜の東京からすると青森の朝は清々しく感じられました。
1984夏青森に到着したところを撮影
実は沼宮内からの峠越えと浅虫からの出発はカセットに録音していて。今でも当時の状況が浮かんで参ります。
急行新星の思い出
◇最初で最後の10系ハネ乗車
自分の両親の実家は宮城県なので帰省で寝台列車に乗る機会はありませんでした。しかし、好奇心旺盛な小学生がその存在を知ってしまったから大変。ところが、伯母が乗せてくれるということになり松島から遊びに来てくれました。昭和49年夏休みのある日の出来事。
◇魅惑の入線シーン
そんなわけで、叔母と妹の3人で仙台に向かうこととなり、両親に見送られながら深夜の上野駅13番線ホームにやって来ました。もう待機中は希望で胸がはちきれんばかりだったと記憶しています。そして入線時刻、上野駅ホームの構造上最後尾の郵便車?を先頭に入線してきました。各車両に設けられた冷房電源のディーゼルエンジンの音が印象的でしたが、本で見た寝台車と違うぞというのが頭を過りました。そうなんです、大体子供向けの本で紹介しているのは20系なのに対して10系ハネなのですから。しかし初めての寝台車の魅力が上回りました。自分たちの車両は機関車次位の増9号車でオハネフ12でした。乗車扉は機関車側だったので乗り込む際にカマを見ると予想していたEF58ではなく茶色い旧型機関車が見えました。これがEF57との出会いで、今よりも薄暗いと思われた上野13 番線ホームでもはっきりと突き出たパンタグラフが勇ましくて格好良く見えました。この第一印象で一発で好きになってしまったカマでした。
◇10系ハネ印象
乗り込むと、天井から突き出した冷房装置が目立ってましたが、今宵の寝床は下段なので気にならず。すでに深夜のため、当時は小学生だったのですぐに眠りに落ち、目が覚めた時は槻木付近を走行中、丸森線のトラス橋が視界に入って来ました。そして仙台到着。すぐの古川行きの客車列車に乗り継ぎ、松島へ。親戚の家で朝のNHKニュースを見ているのが不思議な感じでした。
◇補足
朝起きて通路に出た際に、通路の窓に昔の字体で「解錠」とありましたが、読解できず窓が開けられると知ったのはかなりあとのことでした。早朝に窓を開けられたら爽快だったでしょうね。今は叶わず。EF57は1/150サイズが手元に置いてあります。
その後新星は20系化され、大変喜んだものの乗車は叶いませんでした。
当時の画像は無いので、1982.11.3に仙台で撮影したものを貼ります。
自分の両親の実家は宮城県なので帰省で寝台列車に乗る機会はありませんでした。しかし、好奇心旺盛な小学生がその存在を知ってしまったから大変。ところが、伯母が乗せてくれるということになり松島から遊びに来てくれました。昭和49年夏休みのある日の出来事。
◇魅惑の入線シーン
そんなわけで、叔母と妹の3人で仙台に向かうこととなり、両親に見送られながら深夜の上野駅13番線ホームにやって来ました。もう待機中は希望で胸がはちきれんばかりだったと記憶しています。そして入線時刻、上野駅ホームの構造上最後尾の郵便車?を先頭に入線してきました。各車両に設けられた冷房電源のディーゼルエンジンの音が印象的でしたが、本で見た寝台車と違うぞというのが頭を過りました。そうなんです、大体子供向けの本で紹介しているのは20系なのに対して10系ハネなのですから。しかし初めての寝台車の魅力が上回りました。自分たちの車両は機関車次位の増9号車でオハネフ12でした。乗車扉は機関車側だったので乗り込む際にカマを見ると予想していたEF58ではなく茶色い旧型機関車が見えました。これがEF57との出会いで、今よりも薄暗いと思われた上野13 番線ホームでもはっきりと突き出たパンタグラフが勇ましくて格好良く見えました。この第一印象で一発で好きになってしまったカマでした。
◇10系ハネ印象
乗り込むと、天井から突き出した冷房装置が目立ってましたが、今宵の寝床は下段なので気にならず。すでに深夜のため、当時は小学生だったのですぐに眠りに落ち、目が覚めた時は槻木付近を走行中、丸森線のトラス橋が視界に入って来ました。そして仙台到着。すぐの古川行きの客車列車に乗り継ぎ、松島へ。親戚の家で朝のNHKニュースを見ているのが不思議な感じでした。
◇補足
朝起きて通路に出た際に、通路の窓に昔の字体で「解錠」とありましたが、読解できず窓が開けられると知ったのはかなりあとのことでした。早朝に窓を開けられたら爽快だったでしょうね。今は叶わず。EF57は1/150サイズが手元に置いてあります。
その後新星は20系化され、大変喜んだものの乗車は叶いませんでした。
当時の画像は無いので、1982.11.3に仙台で撮影したものを貼ります。
ちょっと焦ったこと【補足:画像入れました】
昨夜、コンタクトレンズを洗面中に紛失。日常生活に差し障りがあるため半休を取り眼鏡屋に急遽行くことに。
となると、道中で東海道線では希少となったEF65PFの牽く貨物列車とタイミングを合わせられるので、某駅で待機。時刻表を見る限りは被りそうな上り列車は無い様で安心して待ってました。その間、臨時のPF単機(新鶴見の試単でした)が上って来るなど上々と思いきや、肝心な貨物の時刻が近づいても通過しているはずの上り列車の来る気配なし。ようやく来たと思ったら本日の主役も視界に現れドキドキ。上り列車は通過の特急なので速度差で大丈夫だとはわかっていたけど、すぐ脇を通過する列車から目をそらさないようにしつつ見送り、走り去って行く車両の影から目的の列車が見えてくるまではヒヤヒヤしました。と言いながらも上って行く列車もちゃっかり写しました。
結局上り列車が3分遅れると被る可能性が高いことが判明。次回行くときは横着せずに駅の外に出て貨物線側から狙おうと思った次第です。
P.S. ビューファインダーの視度補正は結構秀逸でした。
連写した1枚目、うろたえて傾いた上にど真中構図(傾きを補整してます)
となると、道中で東海道線では希少となったEF65PFの牽く貨物列車とタイミングを合わせられるので、某駅で待機。時刻表を見る限りは被りそうな上り列車は無い様で安心して待ってました。その間、臨時のPF単機(新鶴見の試単でした)が上って来るなど上々と思いきや、肝心な貨物の時刻が近づいても通過しているはずの上り列車の来る気配なし。ようやく来たと思ったら本日の主役も視界に現れドキドキ。上り列車は通過の特急なので速度差で大丈夫だとはわかっていたけど、すぐ脇を通過する列車から目をそらさないようにしつつ見送り、走り去って行く車両の影から目的の列車が見えてくるまではヒヤヒヤしました。と言いながらも上って行く列車もちゃっかり写しました。
結局上り列車が3分遅れると被る可能性が高いことが判明。次回行くときは横着せずに駅の外に出て貨物線側から狙おうと思った次第です。
P.S. ビューファインダーの視度補正は結構秀逸でした。
連写した1枚目、うろたえて傾いた上にど真中構図(傾きを補整してます)
急行いわて(夜行)の思い出
◇座席夜行初体験の記憶
何を隠そう自分の夜行初乗車経験列車でした。危篤の祖父に逢うために東京から仙台に駆けつける際に乗車したと記憶してます。あまり記憶は残っていませんが、夜通し列車が走っていること、深夜なのに意外と大勢の乗客がいたことに驚いた記憶が残っています。乗車中はずっと月を見ながら進行方向左側(西側)の席だったらしい。翌朝仙台に着くと、編成の後ろ半分をあわただしく切り離して出発して行きました。
ところが、後年になっていろいろと資料を見ても仙台で付属編成を切り離す運用は見当たらず、疑問に思っていましたが、1つだけ記憶を思い起こしました。仙台到着時に「後続の急行列車が脱線事故」との放送を聞いたのでした。調べると、野崎-西那須野間で急行列車の機関士が疲労か風邪の影響で仮眠して停止、あろうことか列車が後退し後続の列車と衝突して脱線とのことでした(記録によると1971/2/11の未明に発生)。
以下は想像ですが、後続の列車が来れないために仙台付近の通勤輸送か折り返しの上り列車に使う編成が送り込めなくなり、ちょうど到着した急行いわての付属編成を切り離して使うことにたと推定されます。
残念ながら祖父の最期には間に合わなかったのですが、初めて乗る夜行列車は印象的な出来事でした。今思えば、国鉄マンだった祖父が鉄道好きの孫に社会体験をさせたかったのかもしれません。
◇隠れたる韋駄天急行
実は夜行いわてはもう1回乗車したことがあります。時は昭和57年11月3日、東北新幹線本格開業まであと12日となった夜、在来線優等列車とのお別れ旅行中のこと、翌朝福島に降り立つために仙台→郡山といわて4号に乗車しました。切符は予算と行程の都合上「南東北ワイド周遊券」だったためにこの様な行程となり、その後は郡山→米沢→福島と移動しました。
深夜の仙台駅では20系急行新星等を撮影しホームで待機。連休初日の上り列車のためかそこそこの空席で到着しました。乗り込むと車内放送だけを録音してレコーダーを止めようとしましたが、小気味良く加速して行くため録音を止めずに時刻表をチェックすると、大河原までは昼行急行とほぼ同じ所要時間のため録音を継続することにして、何気なくこの列車の時刻を見ていると意外な発見をしました。
東北と言うと韋駄天急行「くりこま1,6号」が高速列車で有名で、仙台~盛岡間の所要時間は2時間18分、これに対していわて4号の盛岡→仙台の所要時間はなんと2時間24分なのでした。おそらくこれは停車駅の違いの影響と推察されます。というわけで、この時はスケジュール的になす術がなかったのですが、廃止前に乗車しておきたかった列車でした。
さて、当の列車は大河原までは快調に飛ばし、その先は先行の貨物列車に抑えられたためか、それまでと一転してゆっくりとした速度で巡航する走りとなりました。そのまま、眠らずにがんばって深夜の郡山に降り立ち、下りの急行出羽に乗り継ぐのでした。
出羽の乗車記は別の機会に紹介します。
仙台駅の発車表示です。 1982年11月3日
1982年6月 東大宮-蓮田 おそらく急行いわてではなく、まつしまですが(汗)